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鬼滅の刃 無限列車編 大人もハマる理由

歴代1位になった超話題作、「鬼滅の刃 無限列車編」をついに観に行きました。

正月休みのせいか映画館はすごく混んでましたね。かなりの密です。

もちろん「鬼滅の刃」の座席はいっぱいで、私の見る限り全席が埋まってました。

アニメなのに意外にも子供が少ないのが印象的です。小学生らしい子供は全体の1割くらいでしょうか。

おじさんが1人で観に行っても全く違和感ありません。躊躇している人は気にせず観に行って大丈夫です。

 

以下、映画を観て良かったところです。

 

原作に忠実なストーリーが良い!

映画はアニメシリーズをそのまま引き継ぐように、無限列車に乗り込むところから始まります。

物語は原作コミックの7巻−8巻の無限列車編を忠実に映像化しています。

セリフも一言一句、原作をそのまま再現しています。

こういうところは原作へのリスペクトが感じられて良いですよね。

アニメ映画だと映画用のサイドストーリーを用意することが多いですが、原作の面白さを超えれるはずがありません。

大ヒットの要因の1つは原作をそのまま映画にしたことでしょう。

 

炎の呼吸の剣技は映える!

物語の中心は主人公より寧ろ”炎柱”の煉獄杏寿郎です。

この”炎の呼吸”の剣技が映像に映えまくります。

思えば、火や炎の属性は重要なポジションを与えられることが多いですよね。

火の色の”赤”はエースカラーです。これは日本漫画の暗黙のルールです。

日本人は皆、幼少期に戦隊モノで各色の役割を刷り込まれています。

赤:主人公

青:キザ

黄:お調子者

緑:モブ

ピンク:お色気

 

ワンピースでも主人公ルフィの兄が”火拳”のエースでしたね。

 

炎という時点で”準主役級の凄いヤツ”と誰もが瞬時に判断します。

煉獄は9人いる柱のトップバッターで登場しましたが、なんの説明が無くとも柱の中でも1,2を争う強いやつ出てきたと理解してもらえます。

 

そんな貴重な”火属性”キャラを初戦で戦死させてしまう衝撃が、原作では鬼の強さを強烈に植え付けました。

 

 

映画でも”火属性”をいきなり消費してしまう贅沢さが観客の満足感を高めたと思います。

外食チェーンの「いきなりステーキ」と同じ考え方ですね。

 

”火属性”はその後、日の呼吸として炭治郎に引き継がれます。煉獄の戦死はある意味、”火属性”のエース交代の儀式だったとも言えます。

 

猗窩座が割にいいヤツ!

敵の鬼、猗窩座のキャラクターもこれまでのアニメ映画と一味違う良さを出しています。

アニメ映画あるあるだと、敵のボスはその強さ故に主人公を見くびります。その隙きを突いて友情パワーで逆転勝利というのが王道でしょう。

 

猗窩座はこれとは違って、初見から煉獄の強さを正しく認識しています。(炭治郎の弱さも正確に見抜いています。)

そのお陰もあって煉獄に勝利するのですが、最初から最後まで煉獄へのリスペクトを表し、煉獄が死んでしまうのを惜しみます。

あと、煉獄のことを「杏寿郎」と下の名前で親しげに呼びます。

立場は違えど、そんなに悪いヤツじゃないのかな?と思わせてくれます。

 

心の描写が秀逸!

鬼滅の刃は戦闘アニメですが、バトル自体にはあまり重きを置いていません。

寧ろ、表面的な強さよりも内面の強さが丁寧に描かれています。

物語前半の下弦の鬼"魘夢"は主に炭治郎の内面を攻撃してきます。

"魘夢"は眠らせて夢を見せることで戦闘不能にさせる技を持っています。技を解くには夢の中で自殺しなければなりません。

炭治郎は何度も技に掛かり、その度に自殺を繰り返します。

この時点では炭治郎の強さはそれほどではありませんが、心の強さは"魘夢"を驚かせます。

 

武力のみに価値を置き、炭治郎をザコと罵る猗窩座に対して煉獄は、

「この少年は弱くない。侮辱するな」

と反論します。

その煉獄自身も鬼になって無敵の強さを手に入れようという猗窩座の誘いを拒絶し、人のまま戦って死ぬことを選択します。

 

単純な力比べとは違う内面の強さを描いたことが、大人もハマる映画になった要因でしょう。

 

さらに、映画内にはいくつもの名セリフが散りばめられてます。

個人的に一番刺さったのは、煉獄の母が病で無くなる直前に幼い煉獄に語った最後の言葉です。

「母はもう長く生きられません。強く優しい子の母になれて幸せでした。」

これは泣くでしょ。。

このセリフの直前、強く生まれたものの責務として弱い者を助けなさいと諭しますが、

「強く優しい子の母になれて幸せでした。」

と幼い煉獄が既に「強く優しい子」であり、それが「幸せ」と言って死んでいくのです。

煉獄としてはもう”責務”を全うするしかありません。

 

トイレの張り紙の「いつも綺麗にご利用頂いてありがとうございます。」と同じ考え方ですね。